コロナ禍を経て、クラウドの利用が急速に広がったが、その多くはオンラインストレージ、電子メール、ビデオ会議やスケジュールの共有といったコラボレーション系のサービスが主体である。業務システムの領域におけるクラウドの利用は、まだまだこれからといった状況のようだ。そこで本特集では、既存のオンプレミス環境をクラウドへ導くためのソリューションを紹介していく。
ERPの主流はクラウドへシフト
課題は混在環境のデータ同期か
企業業務の中枢をカバーするERP。オンプレミスが主流であったERPだが、デジタルトランスフォーメーション(DX)に取り組む企業を中心に、クラウドへとシフトする動きが活発化しているようだ。企業へのコンサルティングおよび市場調査を行うアイ・ティ・アール(以下、ITR)の調査から、ERP市場の実態を探っていこう。
企業の基幹系業務システムは
2025年までに半数近くがSaaS化
ITRは、2024年3月21日に「国内のERP市場の提供形態別市場規模推移および予測」を発表し、その詳細を同社が発行する市場調査レポート「ITR Market View:ERP市場2024」にまとめている。同社の調査によると、ERP市場の2022年度の売り上げ金額は1,687億円と、前年度比11.6%の増加となった。また、パッケージとSaaSの提供形態別で比較すると、パッケージ市場は前年度比3.4%減の半面、SaaS市場は前年度比26.8%増と高い伸びを見せているという。
ITRでは企業のIT投資動向の調査も行っており、その内容を「ITR投資動向調査2024」として発表しているが、同調査の中でも「全社的なデジタルビジネス戦略の遂行」と「基幹系システムのクラウド化の実践」は最重要テーマのトップ2となっており、デジタルビジネスと基幹系システムのクラウド化が両輪となってDXを推し進めているとITRは分析している。
ITRのプリンシパル・アナリストを務め、今回のERP市場の調査を担当した浅利浩一氏は「2022年8月に行った『企業におけるセキュリティおよびアイデンティティ・ガバナンス実態調査』内で、2025年までのエンタープライズSaaSの動向を調査しました。その調査では、『25~49%』をSaaS化する見込みであると回答した企業が最も多く51%、『25%未満』および『50~74%』と回答した企業が共に約20%でした。また『75%以上』とする企業も12%存在しました。これらの結果から、2025年には、企業の基幹系業務システムのおおむね半分程度がSaaS化される流れになると言えるでしょう。こうした動向は、製造業と非製造業でも大きな差がないことに加え、毎年調査を行っている国内ERP市場の予測ともほぼ符号しており、今後の動向の参考になります」と語る。
実際、ITRの調査によれば2019年度時点でERPを新規導入する企業の50%以上がクラウドERP(SaaSとパッケージをIaaS上で稼働させる形態の合算)を選択していたという。既存のオンプレミスERPをクラウドERPに刷新するケースも見られ、クラウドERPのデファクト化が今後ますます進んでいくとみられる。
リスクや懸念が薄まり
ERP製品の大半がクラウドへ
浅利氏はERP市場の10年間の変遷を示し、2010~2012年度(予測値)では、SaaS利用は人事・給与が大多数を占めていた一方で、2020~2022年度(予測値)の最新調査では会計が多数を占めていることを指摘する。浅利氏は「特に大企業などは財務データをクラウド上で管理すること自体をリスクとみる傾向が強くありましたが、SaaSが普及していく中でそうした先入観がなくなり、導入が増えていったものと考えられます。また大企業がグローバルで経営管理を強化する場合、システムを横展開しやすいSaaSのニーズが高いことも普及が進んだ背景の一つです」と語る。
企業がクラウドERPへとシフトしていく動きを受け、ERPベンダーもクラウドへの対応を進めている。ITRのITR Market View:ERP市場2024によれば、ERP製品のトップ15の内、オンプレミスの売り上げがあるのは4製品のみで、ほかは全てSaaS型ERPだという。「オービックは、非SaaSのパッケージのみを提供している中で例外的に売り上げを伸ばしており、トップシェアを獲得しています。しかし同社が提供している『OBIC7シリーズ』はプライベートクラウド『OBIC7クラウド』上で稼働するパッケージ(IaaS)が新規導入では9割の製品であり、実質的にはクラウドERPであると言えます」と浅利氏。SaaSとパッケージ(IaaS)を合わせて考えれば、シェアの高いERPのほぼ全てが、クラウドへの対応が進んでいると言っていいだろう。ユーザー企業側もSaaSへのリスク懸念などが薄まったことで、クラウドERPの導入や移行を進める傾向にある。
課題となるのは混在環境
SIerによる正しい支援が重要に
一方で、それ以前に導入されていたオンプレミス環境も依然として稼働しており、当面は新規のクラウドERPとオンプレシステムが混在する環境になる。「2030年ごろまではこうした混在環境が継続すると見込んでおり、かじ取りが難しくなっていくでしょう」と浅利氏は指摘する。そうした環境下で発生する可能性のあるトラブルとして、浅利氏は「データ同期」を挙げた。「ある自動倉庫を使っている製造業の事例です。ERPをクラウドに刷新するに当たり、ERPでは満たせない要件をオンプレミスのWMS(倉庫管理システム)でカバーするため、それぞれのインスタンス間をアドオンで連携する必要が出てきましたが、ERPベンダー側もWMSベンダー側からも標準で導入してほしいという要望がありました。そこで導入に携わったSIerは、PaaS上でアドオンを開発し、そこを経由してERPとWMSのデータを連携させることにより、それぞれのインスタンスのデータベースを同期する設計をしました。しかし、実際に稼働させたところ、処理量に耐えられず深刻な在庫不整合が発生しました。現実的には、分散インスタンス間トランザクション処理で完全同期はあり得ません。非同期を前提にしながら、クラウドベースのAPIなどを活用する前提でSIerがきちんと正しい支援を行っていく必要があるでしょう。生成AIやLLM(大規模言語モデル)などの技術革新を有効活用しつつ、業務プロセスやデータ分析を自動化していくためには、現在のサイロ化したシステムを一貫性の高いクラウドネイティブな経営基盤に再編していく必要があります。ERPは、そのための不可欠な要素として、今後も導入が進んでいくことが見込まれます」と浅利氏は指摘した。
パブリッククラウドシフトでSAPビジネスに新たな商機を生み出し新規パートナーの参入と新規顧客の獲得でビジネスを伸ばす
国内でも多くの企業が利用しているSAPのERP製品に、新たなビジネスチャンスが期待されている。その要因は大きく二つある。一つは既存製品のサポートがまもなく終了するため、そのリプレース需要が期待できること。もう一つがSaaSで提供される「SAP S/4HANA Cloud Public Edition」による新規ユーザーの開拓だ。SAP S/4HANA Cloud Public Editionは中小企業も導入しやすく、これまでSAPビジネスを手掛けてこなかったSIerも、SAPビジネスに新規参入しやすいことから、同ビジネスの成長が期待されているのだ。
既存ユーザーのおよそ半数が
SAP S/4HANAへの移行を施行中・完了
Windows 10のサポート期限が2025年10月に迫っていることは周知の通りだが、同じ時期に国内の多くの企業で利用されているERP製品もサポート期限を迎える。それはSAP ERPおよびSAP ECC(ERP Central Component)のそれぞれ6.0で、いずれも適用されている拡張機能パッケージであるSAP Enhancement Packageのバージョンが5以下のシステムが対象となり、2025年末にサポートが終了する。
ちなみにSAP ERP 6.0およびSAP ECC 6.0にSAP Enhancement Package 6以上を適用しているシステムは2027年末まで延長サポートを受けることが可能で、さらに追加料金を支払うことで2030年末まで保守期限を延長できる。いずれにしてもSAP ERPおよびSAP ECCは、近い将来に市場から姿を消すことになる。
これら既存のSAP ERPおよびSAP ECCのユーザーがSAP製品を引き続き利用するには、最新製品である「SAP S/4HANA」へ移行することが求められる。SAPでは既存のSAPユーザーに向けて、早くからSAP S/4HANAへの移行を呼びかけてきた。
SAP S/4HANAにはオンプレミス版とクラウド版の大きく二つの製品があり、クラウド版であるSAP S/4HANA CloudにはAWS(Amazon Web Services)やマイクロソフトのAzure、GCP(Google Cloud Platform)などのクラウドプラットフォームを通じて提供されるPrivate Editionと、SAPがSaaSで提供するPublic Edi tionの2種類がある。
SAPジャパンでEnterprise Cloud事業統括本部 SAP S/4HANA クラウド事業部 事業部長を務める増田 剛氏は「以前よりSAP ERPおよびSAP ECCを利用いただいているお客さまのおよそ半数はSAP S/4HANAへ移行済み、あるいは移行を進行中です」と説明する。前述の移行組の8割はSAP S/4HANA Cloudを選択している。さらにSAP S/4HANA Cloudを選択した9割がPrivate Editionを選択しているという。
Clean Core ERPとFit To Standardで
システムも業務もシンプル化する
クラウドシフトを加速しているSAPだが運用中のSAP ERPやSAP ECCからSAP S/4HANA Cloudへ移行するのは容易ではない。その原因は運用中のSAP ERPやSAP ECCに多くの独自のカスタマイズを施していることと、独自に開発した数多くの拡張機能(アドオン)をSAP ERPやSAP ECCの内部に作り込んでいるためだ。特に新バージョンで既存のアドオンを認識できないなどアドオンの影響範囲が大きい。そのためアップグレードに多くの工数がかかったり、多額のコストがかかったり、新バージョンで使えなかったりするなど、これらの要因がSAP S/4HANAへの移行を困難にしている。
そこでSAP S/4HANA Cloudでは「Clean Core ERP」というコンセプトを打ち出している。Clean Core ERPとは文字通りコアを汚れのない清潔な状態に保つことを意味し、SAP S/4HANA Cloudの標準機能(コア)に手を加えずにそのまま利用する。さらに独自要件に関しても、できる限り標準機能を変更せずにそのまま活用する。ユーザーのビジネスや業務において競争領域での機能拡張が必要な場合は、SAP S/4HANA Cloudのコアの外部で機能を開発・提供する。
このコアの外部で拡張機能を開発、提供するプラットフォームが「SAP Business Technology Platform」(以下、SAP BTP)であり、SAPはコアをクリーンに保ち、SAP BTPで機能を拡張する「Side by Side拡張」を推奨している。SAP BTPでは拡張機能の開発環境やワークフローの自動化、システム連携機能、さらにAI機能などが提供される。
Clean Core ERPを徹底しているのがSAP S/4HANA Cloud Pub lic Edition(以下、Public Edition)だ。Public EditionはERPのコア領域に特化した機能がSaaSで提供される。バージョンアップも自動で行われ、「Fit To Standard」のアプローチで最新の標準機能にユーザーの業務やワークフローを寄せていく使い方となる。機能拡張が必要な場合はBTPで対応することは前述の通りだ。一方のSAP S/4HANA Cloud Private Edition(以下、Private Edi tion)はERPのフル機能が利用でき、コアでのアドオン開発にも対応する。
とはいえ運用中のSAP ERPおよびSAP ECCからSAP S/4HANAに移行するのは、容易なプロジェクトではない。Private Edi tionではアドオン開発も可能とはいえ、既存のシステムをそのままPrivate Editionへ移植したのでは、ユーザーのビジネスに何も変革をもたらさないし、将来の成長に向けた備えという観点でも、せっかくのリプレースという好機を生かせない。このような観点からも増田氏は「SAP S/4HANAへの移行、新規導入において、まずはPublic Editionを検討してほしい」とアドバイスする。
Public Editionに期待される
パートナーと顧客の新規獲得
これまでSAPのビジネスは、大企業の顧客が中心で、SAPに関する深い理解とノウハウの習得が必要だという印象があった。実際には中小企業の顧客もおり、中小規模のSIerも多数ビジネスに参画しているのだが、SAPビジネスに新規に参入することに難しさを感じている企業も少なくない。またSAPビジネスで新規顧客を獲得する余地はあまりないと考えている企業も多いだろう。
しかしPublic Editionによって、SAPビジネスへの新規参入、新規顧客開拓がしやすくなり、新たなビジネスチャンスが期待できるようになったのだ。増田氏は「Public EditionはSaaSで提供され、Fit To Standardでの利用を推奨しているため、新規のパートナーさまが参入しやすいこと、低コストで導入、利用できるため中小企業のお客さまにも提案しやすく、新規のお客さまを獲得しやすいことなど、新たなビジネスチャンスを提供します」とアピールする。
実際にこの1年間でPublic Editionを中心に新規の顧客が増加しているという。また2023年の国内の実績では42社の新規パートナーを獲得し、認定コンサルタントもPublic Editionで2倍に増えたという。これらに伴いパートナー再販クラウドビジネスは44%の成長を記録した。さらに今年度も成長を続けていると増田氏は力強く語る。
【中堅企業でのSAP S/4HANA Cloud導入事例】
10年後も続く成長を支えるために基幹業務システムを刷新
EAIツールを活用してPublic Editionへの移行を実施中
——赤城乳業
長年にわたり幅広い年齢層に親しまれている氷菓「ガリガリ君」を製造・販売する赤城乳業が「SAP S/4HANA Cloud Public Edi tion」の導入を進めている。同社は2014年よりSAP ERP Central Component(以下、ECC)を運用しており、2025年に迫るサポート期限(ECC 6.0 EhP5)への対応と、2030年代に売上1,000億円達成を目指す成長戦略を支えるIT基盤の構築が課題だった。ECCのリプレースにおいて、同社がSAP S/4HANA Cloud Public Editionを選択した経緯をリポートする。
売上300億円達成を契機に
2014年にSAP ERPを導入
赤城乳業は「ガリガリ君」を主力商品とするアイスクリーム専業メーカーだ。アイスクリームは少子高齢化や人口減少という社会課題の影響を強く受けそうな商品だが、同社の売り上げは長年にわたり成長を続けており、2008年の売上250億円弱から2023年には売上570億円に達している。そして同社のビジネスの急成長に伴って、経営と事業を支えるITインフラの強化が課題になったという。
赤城乳業で情報システムを統括する財務本部 情報システム部 部長 吉橋高行氏は「売り上げが300億円を超えた2011年に(埼玉県)本庄千本さくら『5S』工場が竣工し、引き続き成長を目指す環境が整いました。当時は生産、会計、販売をそれぞれ別のシステムで管理しており、それぞれのシステムからデータを抽出してExcelに入力し、経営管理に必要な資料を作成していました。しかしさらなる成長を目指していく中で、経営管理に必要なデータを統合管理して、経営判断の迅速化を図らなければならないと考えました」と説明する。
また同社をはじめ製造業において在庫管理は非常に重要な業務の一つだ。特にアイスクリーム専業メーカーである赤城乳業の事業には、商品であるアイスクリームの需要は夏季に集中するという特性がある。工場の生産能力を夏季のピークに合わせると、夏季以外の時期は設備が過剰となり投資に無駄が生じる。設備の稼働を平準化して投資を適正に保つには、ピークに備えて春先に在庫を確保しておくことが有効策となる。
ただし在庫をどれくらい持つべきなのかの判断は人手で判断するのは難しく、データを用いて緻密に管理する必要がある。吉橋氏は「在庫を余剰に持つと、その保管や廃棄に伴うコストが利益を圧迫してしまいます。しかし従来は在庫を商品の数量で管理しており、決算に必要な製造原価の計算はしていましたが、単品別の原価は把握できていませんでした。例えば盛夏を迎える直前に600万ケース、700万ケースの在庫を持つという具合でピークに備えていましたが、これらを売上金額で評価すると100億円になります」と説明する。
同社の当時の売り上げは300億円だが、それに対して100億円の在庫を持つことが経営判断として正しいのかという議論から在庫管理の強化も課題となり、前述の経営判断の迅速化と合わせて、データベースの統合を目指したIT基盤の刷新が実施された。その結果、ECCが導入された。
SAP ECCの安定性に満足するも
生産と原価掲計算を外部へ切り出す
ECCが導入された2014年は、同社の主力商品であるガリガリ君の販売本数が4億3,000本を記録し、ほかの商品と共に事業の成長が加速していた。同社の基幹業務システムにはECCのほかに商品情報データベース「Mercrius」や商品試作支援システム「Quebel」、原料仕入れデータベース「MerQurius Net」、経理領域のワークフローシステム「皆伝!」、ワークフローの自動化基盤「intra-mart」、そしてデータ分析基盤「Dr.Sum」、在庫管理などを担うMES(Manufacturing Execution System:製造実行システム)などが稼働し、ECCと連携している。
そしてECCでは生産計画・生産管理、購買管理、販売管理、財務会計、管理会計、割振在庫、マスタ管理などが行われている。ECC導入後、同社の経営と事業を支える各種の基幹業務システムがECCと連携することでデータを統合管理できるようになり、単品別の原価が月次で計算できるようになるなど、さらなる成長への備えが整った。
ただし吉橋氏は「ECCを導入してIT基盤を刷新したことで経営と業務に変革をもたらしました。しかし高度なシステムを導入したからと言って、ビジネスが良くなるわけではありません」と指摘する。ECCが稼働した2014年1月からわずか2カ月後の同年3月、過剰在庫問題が生じる。
これはガリガリ君の「コーンポタージュ味」と「クレアおばさんのシチュー味」のヒットに続いて発売された「ナポリタン味」が、3億円ほどの赤字を出した問題だ。この問題を契機にシステムの高度化と同時に、組織や制度を見直すBPR(Business Process Re-engineering)も実施し、その後の成長につなげることができたという。
ECC導入後、2018年にシステムごとにオンプレミスで運用していたサーバーをHCIで集約したほか、2023年にはECCで行っていた生産管理をアミックの「AMMIC/NetP」に切り出すとともにMESを刷新するなど、基幹業務システムの最適化を継続的に実施してきた。ECCに対して吉橋氏は「ECCは計画停止以外で障害はほぼなく、可用率99.89%を実現しています。またECCを長年にわたって使い続けてきた中で、ECCが得意とする用途が理解でき、その結果、生産管理と原価計算を専用システムに切り出しました」と評価する。
売上1,000億円を目標にIT基盤を刷新
S/4HANA Cloudの導入を検討
ECC導入後、赤城乳業は同社の経営努力により2023年12月末に売上570億円を記録した。さらに同社は売上1,000億円を2030年代に実現する目標を掲げている。同社が目指す成長に向けて現在のIT基盤は適しているのかと自問し、10年先の経営と事業を支えられるIT基盤の整備に向けて再び検討することになった。
同社が現在運用しているECCはバージョンが6.0であり、適用されているEhP(Enhancement Package:拡張パッケージ)は5だ。すなわち2025年末にサポート期限を迎える。その対応策はEhP6以上を適用して最長2030年末までECC6.0を使い続けるか、最新のSAP S/4HANA(以下、S/4HANA)へ移行するか、またはSAP以外の製品に乗り換えるかの三つの選択肢となる。
まずSAP以外のシステムを新規に導入することについて吉橋氏は「当然SAP以外の選択肢も含めて検討しましたが、検討した製品の中で10年後も提供し続けている(であろう)と信頼できるのはSAPであり、S/4HANAへの移行が最善だと判断しました」と説明する。
そして「SAPはクラウドシフトを強化しており、将来のIT基盤としてクラウドの選択は必然です」とし、「S/4HANA Cloud」の導入が検討された。そこで頭を悩ませるのがS/4HANA Cloudの二つの選択肢、「S/4HANA Cloud Private Edition」(以下、Private Edition)と「S/4HANA Cloud Public Edition」(以下、Public Edi tion)のどちらを選択するかだ。
吉橋氏は「王道的な選択としてはPrivate Editionで運用中のECCの環境を維持して移行することでしょう。Private EditionではECCに機能拡張したアドオンが利用できますので、業務への影響を最小限に抑えて最新の環境が構築できます」と話す。
一方のPublic EditionはSaaSで提供されるためサービスの利用コストや運用管理のコストが従来のオンプレミスのECCと比較しても、Private Editionと比較しても大幅に削減できるメリットがある。さらに機能が自動的にアップデートされるため、常に最新の環境が利用できるメリットもある。ただしPublic Editionへの移行にはリスクも伴う。
Public Editionの多くのメリットと
できていたことができなくなるリスク
S/4HANA Cloudは基本機能であるコアに手を加えずクリーンな環境を維持する「Clean Core ERP」で利用することが推奨されている。できる限り標準環境のまま利用し、システムと業務にギャップが生じた場合は「Fit To Standard」、すなわち業務やワークフローをシステムに合わせることで効率化を図る使い方が提唱されている。
Private Editionのコアにはフル機能が提供され、コア領域での機能拡張も可能なため、既存のECCと同様の環境が構築できる。しかしPublic EditionはERPのコア領域に特化した機能に絞られており、既存のECCで使っている機能や仕組みがPublic Editionでは利用できなくなるケースもある。
また機能拡張はコアの外側で提供される「SAP Business Technology Platform」(以下、BTP)で対応し、コアはクリーンな状態を維持する「Side by Side開発」という仕組みになっており、機能拡張はBTPが提供するサービスに限られる。ちなみにBTPではAIをはじめとしたさまざまな機能が提供され、今後も継続的に機能が追加、強化されていく予定だ。
こうした検討事項を経て赤城乳業が選択したのはPublic Edi tionだった。吉橋氏は「現場で業務に携わる事業部門は既存のECCに不満はなく、引き続き従来と同じ環境が使えることを望んでいました。情報システム部門としてはPublic Editionを選択すると、これまでできていたことができなくなるリスクはあるものの、そのリスクよりもメリットの方がはるかに大きいと評価してPublic Editionを提案しました。提案に対して当社の経営陣は既存の環境と変わらないシステムに予算を支出するのは投資とは言えないとし、リスクはあるが将来の発展性を優先してPublic Editionの導入を決断しました」と説明する。
従来のECCの運用を見直す好機
導入コストの低さも大きな魅力
赤城乳業がPublic Editionを選択した理由はいくつかある。ECCでは業務に合わせてアドオンを開発して適用してきた。その結果、システムが複雑化して運用管理の負担が大きくなっていた。また過去に作ったアドオンの中には現在は使っていないものもあり、そもそもECC上に持たせるべき機能だったのかという反省もあった。
吉橋氏は「業務の変化に対して新しい機能を追加して対応していくという従来のやり方では、都度SIerとのやりとりが発生し、それに伴って時間と工数がかかります。これはコスト増に直結しますし、当社がやりたいことがすぐに実行できないという問題もあります」と指摘する。
Public EditionのClean Core ERPでコアをシンプル化して、Fit To Standardで機能拡張を最低限に抑えることで、運用管理の負担が軽減できる。ただしPublic Editionで提供される機能と業務とのギャップを、カスタマイズや機能拡張せずに、どこまで合わせられるかという課題が残る。
次に評価したのがコストだ。既存のECCの環境をPrivate Edi tionで構築する場合、大きなコストがかかることが分かった。それはS/4HANA以外の別のシステムをスクラップ&ビルドで導入する際のコストよりも、はるかに大きな金額になると試算したのだ。
吉橋氏は「さまざまな選択肢を試算して比較すると、Public Editionの導入コストが最も低いと判断しました」と説明する。
EAIツールでS/4HANAと他システムを連携
ローコード開発でカスタマイズに対応
数多くの導入メリットがあるPublic Editionだが、Clean Core ERPとFit To Standardを実践していくとはいえ、実際の業務に適用していくには機能拡張やカスタマイズは避けられない。機能拡張はBTPを利用して対応するにしても、UIなどのカスタマイズが担保できなければPublic Editionの導入は難しいところだ。
この課題に対して赤城乳業のPublic Edition導入を支援したフリーダムは、アステリアのEAIツール「ASTERIA Warp」とOutSystemsのローコード開発プラットフォームを組み合わせた構成を提案した。
この提案を受けて赤城乳業とフリーダムはPublic Editionの標準機能であるコアを標準化領域と定義し、この部分はクリーンな環境を維持して利用する。
コアの外側となるBTPをはじめ既存の各種システム、そしてOutSystemsなどを差別化領域と定義し、これらをASTERIA WarpでPublic Editionのコアと連携させる。さらにデータも差別化領域にて統合管理する。つまりASTERIA Warpを中心にPublic Editionのコア、BTP、各種システム、統合データベース、OutSys temsなどが接続されるイメージだ。
吉橋氏は「ASTERIA WarpにはSAPのアダプターが用意されており、さまざまなシステムと柔軟に連携することが可能です。またOutSystemsによってUIを自社開発できるようになり、対応スピードとコストパフォーマンスを大幅に向上させられます」と説明する。
赤城乳業ではこの仕組みによって運用コストが従来比で半分以下に削減できると試算しているが、吉橋氏は「運用を効率化していけば対応スピードとコスト削減を三分の一、四分の一へとさらに向上させることができるとみています」と期待している。
吉橋氏はPublic Editionの導入を振り返って「2023年に生産管理と原価計算をECCから別のシステムに切り出し、ECCでは得意分野である会計と販売管理に絞って利用していました。生産管理も含めてPublic Editionに移行するとなると、かなり厳しかったと思います。さらにASTERIA WarpとOutSystemsの三つの要件がそろったことで、Public Editionへの移行が実現できました」と説明する。
赤城乳業でのPublic Editionの導入はアジャイル開発で進めており、現在は要件定義に当たる段階にある。これから実装が始まり、業務への全面的な適用は2026年1月の予定だ。